平重衡のお墓をお参りする(2)深くも悲しき夫婦愛の話

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 ありがとうございます。今日もすべてに感謝します。
 世界中のすべての方が幸せにありますように!
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2020年 令和2年
5・18(月)
 
   平重衡の墓をお参りする(2)
   深くもちょっぴり悲しき夫婦愛の話

 姫野です。
 今日京都はくもりでときおり小雨降る
 お天気でした。
  
 いや~、ど~も、いかがお過ごしでしょうか。
 今日は昨日に続きの話ですが
 昨日
 1185年壇ノ浦の戦いで、「高倉」天皇・建礼門院・
 阿波内侍とともに輔子は入水
 と書きましたが「安徳」天皇の誤りです。
  見直したときに直したつもりでしたが
 ごめんなさい。
 僕はこれを「弘法もちょくちょく誤り」と名付けよう。
 (なんじゃそりゃ!)
     
 さて
 平家物語に残る
 平重衡(しげひら)と藤原輔子(すけこ)の
 夫婦のお話の続きです。

 1185年重衡が鎌倉から奈良へと護送される
 途中、山科から奈良街道を下ります。
 途中日野(醍醐)を通ります。

 重衡が言います。
 
 「私には子がないので思い残すことはないのですが、
  この近くに妻がおります。今一度対面して
  後生のことなど申し伝えておきたい
  武士の情けで、会わせてはもらえないか」

 今は重衡に好意を懐いていた鎌倉武士も
 これを許します。

 玄関に現れた重衡に輔子は
 「夢かうつつか…」と駆け寄ります。
 そして互いに涙ながらに、これまでのことを物語りします。
 
 重衡は「出家して髪を残したいがそれも叶わないので」
 と髪をひと房噛み切って輔子に渡し形見とした。

 輔子は「(壇ノ浦で)入水して死ぬべき身でありましたが、
 貴方が生きていると聞き、今一度お姿を見ることもあるかも
 しれないと願い生き長らえてきました」と涙を流した。

 輔子は重衡を白の狩衣に着替えさせ、
 (夫の衣装を用意するのは、当時の妻の
  たしなみ、役割でした)
 それまで着ていたものは形見とします。
 最後に別れの歌を交わした。

 重衡
  せきかねて 涙のかかる から衣
   後の形見に 脱ぎぞ替えぬる 
 輔子
  ぬぎかふる 衣も今は 何かせむ
   今日を限りの 形見と思へば

 と返歌した。
 重衡は「契りあれば来世にあってもまた逢えるでしょう」
 と言い残して去ります。
 
 奈良へ送られる重衡の後を見送る輔子は
 うち伏して、ただ泣きます。

 木津川河畔で大勢の見守る中で
 重衡は処刑されます。

 首は般若寺にさらされますが
 僧俊乗坊が請いもらい受け
 荼毘にふされます。

 首の骨は高野山へ
 他の骨は輔子の住む日野の地に
 埋葬されました。
 
 当時の女性はよほど高貴な身分でないと
 記録には残りませんので
 輔子のその後の確かなことは
 わかりません。

 ただ
 出家して、京都大原の寂光院で
 建礼門院・阿波の局・とともに
 暮らしたと伝わります。
 
 時代の波に翻弄され
 若くして別れざるを得なかった
 重衡と輔子の夫婦のひとつの現実の話です。

 たぶん、来世でまた出逢い、愛し合って
 幸せにお暮しだと思います。
 
 ではでは
 愛を込めて!

 姫野 修一郎(Himeno Shuichiro)
 ana38655@nifty.com

 今日も笑顔でニコッとね。

 何であれ、そこに愛が流れてこそ
 はじめてこころから楽しくなります。
 
 幸せはごく自然な
 あなたの命の本来の属性です。
 
 姫野修一郎のブログ「ただあるがままに」
 http://siawase1.at.webry.info/

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